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 信仰生活をするうえで、どうしても理解しないでは信仰生活が進まないもの、
信仰が成長できないものがあります。

 ヘブル5:11~14では、信仰は年数に比例しない。
あるものを理解するまで、ミルクを必要とする幼子であると言っています。
それは、:13の、義の教えです。

 聖書には2種類の義があると書いてあります。
ピリピ3:4~9  
:6律法による義については非難されるところのない者であった。
とパウロは言っていますが、

:8それはちりあくたで役立たずのものだと言っているのです。 
一生懸命自分の義で神に近づこうとしても、神の義に比べれば、
自分の義の足りなさを覚える、それが律法による義つまり、行ないよる義。

 もう一つは、
:9にあるキリストを信じる信仰による義-神から与えられる義。
つまりプレゼントされた神の義です。ローマ5:17では、義の賜物とあります。

 賜物とはgiftであり、戴き物なのです。
私たちは神の性質である義を受け取っている-
神の子である地位を受け取っていることをパウロは発見させられたと欽定訳では書いてあります。

 つまり、私たちが義を行なえなかったとき神の子としての地位を失うのではない者となった。
キリストの身代わりによってローマ8:1 決して義を失わないので罪に決して定められない者となった。
これは、神の義をもらっているからです。

 ロ-マ1:17 では、私たちは福音の知らせを聞いたのですが、その福音の中には自分の努力による義が啓示されているのではなく、神の義が啓示されていると書いてあるのです。
またその神の義が信仰を進ませると言っているのです。

 クリスチャンらしいことができないから苦しんでいる人はいますか?
私は牧師らしいこともできない自分があります。
:17では、神の義をもらった人は信仰によって生きると言っているのです。

 信仰はヘブル11:1で、
まだ、現実になっていないことを信じることと言っています。
「私は神の義をもらっているから、私は整っていない所があっても、神に受け入られている。
だから、私の祈りは天に届いている。
私は聖霊によって牧師らしいことが、クリスチャンらしいことができる人に変えられたと信じます。」と
確信をもって言えるのです。

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