今日のみことばN
みことばの祝福をお届けします
2025年 3月2日 聖日礼拝
恵那クリスチャンセンター
メッセージ:神内源一牧師
「隠された奥義 教会」
イザヤ59:19「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」
西の方はヨーロッパだと思います。そして日の上る方は、極東の日本です。
日本のことで預言されているのは「主の栄光が恐れられる」ということです。
まだその状態を見ていませんが、今の私たちの時代だと私は思っています。
この事が起きると「主は激しい流れのように来られ」て、そして「主の息」が吹きまくる。
初代教会の時にペンテコステがあり、最初の聖霊の風、そして世の終わりの時に
イザヤ59:19のことがあるのです。
今がその時で、その中に皆さんが召されているという事です。
日の上る所ー日本だと名指しで言われていると思います。
ヨーロッパ、世界の人たちが日の上る所が日本だと思っています。
世界のクリスチャンは、日本で素晴らしい教会のリバイバルが起きると思っています。
そのために私たちは準備していきたいと思います。
今日のメッセージです。
私たちはイエス様を信じ、その中で罪赦され、義となり、天国に行ける者になっている事を感謝していきたいと思います。
聖書には旧約と新約があります。
旧約にはイエス様について書かれていないと思うのですが、所々にやっぱりイエス様が居られます。
箴言8:30「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、」
この箇所はよくよく見るとイエス様は出てくるのですが、分かりにくく書かれています。
それはサタンが居るからです。
アダムとイブの罪の為に私たちは全ての罪の中になったので救われません。
救われる為には、このイエス様が来なければいけないのです。
悪魔は、イエス様がどの様に解決するかが分かったら邪魔をしますから、隠されているのです。
旧約聖書でモーセが紅海を真っ二つに分けたり、ヨセフは奴隷の身から総理大臣になっていく。夢を解いて凄いと思い、旧約のメインキャストはモーセとかヨセフのような人に見えています。
そして、ユダとタマルとの間に子供が出来て、その系図の中でイエス様が生まれてくることはほんの1章の出来事で書いてあります。
何十章と、モーセやヨセフの物語が書いてあるのにユダについてのイエス様の系図ににつながる話は1章しか出てこないのです。(創世記38章)
それは隠されている奥義なのです。
私たちは聖書を読む時に奥に隠されていることは何かと読む。これが本当の聖書の読み方なのです。
旧約のモーセの時代というのは、幕の中に入れない、天国に行けない、神を見たら死ぬという時代です。
モーセはカナンの地に入ることはできないのです。カナンの地に入るという事は、天国に行く意味を表していると私は思うのです。
モーセはその手前のピスガの頂までで、そこで命を終えられたのか、天に上げられたのかは分かりませんが、カナンの中に入れなかったという事です。
私たちがこの隠されている事を見る中、ある言葉が旧約に出てきません。
それは「教会」です。
「教会」はイエス様が来てから始まる事なので、新約の中で初めて「教会」という言葉が出てくるのです。
今日は「教会」とはどういうものかという事を見ていきたいと思います。
私たちは救われました。いやされました。そして今どの様な歩み方をするのか、どういう希望を持っているのかを見ていきます。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:3~5)
豊かな憐れみー罪ある者が憐れみを受けてイエス様の復活によって新たに生かされ、そして生ける希望を持つことができるのです。
生ける希望ー人間1度は死にます。死んでしまったら神を知らない人は希望がないのです。私たちは生き返り天国に行きますので生ける希望を持つ者になっているのです。
今私たちはこの地上の生活がどうかではなく、天に蓄えられている天の資産、つまり天国を私たちが継承する者、相続する者になっているという事です。そして信仰によって日々の生活が守られていきます。
これが私たちであることに感謝していきたいです。
しかし、それを与えるためだけにイエス様が来たというのではないのです。
ガラテヤ3:27「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」
私たちがイエス様を着るという事は一体どういう事なのかに注目していきたいと思います。
旧約の中に結局、何が書いてあるかというと
ヨハネ7:42に口語訳では
「キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」とあります。
つまり、イエス様が預言されていて救い主イエス様がベツレヘムで生まれる、このイエス様が来てから始まるということです。
そしてイエス様が来ないと起きない事、それは「教会」なのです。
私たちは今教会に集い教会で礼拝していますが、教会はどういう使命をもってどういう事をするのかという事を知らないと、ただイエス様を信じて天国に行けるだけの信仰生活になってしまいます。
神様は私たちを通して何をしようとしているのか。
パウロの時代はパウロを通して福音が全世界に伝わりました。
今、この時代の中で神がどの様に計画していて私たちをどのように使おうとしているかということを私たちは知るべきだと思うのです。
「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」(エペソ 5:23)
イエス様が教会のかしら、かしらとは頭です。
私たちはその体、教会は体なのです。
そしてイエス様はその教会、体の教会の救い主なのです。
イエス様は私たちを個人的に救ったという事はありますが、イエス様の救い、それは教会を通して救っているのです。
イエス様を信じたときにイエス様を着たと書いてありました。
どうしてイエス様を着たという事になるのか。
それはイエス様が死んでよみがえったからです。
「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ5:20)
なぜ私たちがイエス様を信じただけで永遠のいのちを持っているかというと、イエス様の中に入れられたからです。
イエス様の中に入れられたという事を見ていきます。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
もしあなたがたがキリストのものであれば、それに
よってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:28,29)
アブラハムの祝福を私たちが受けるのは、イエス様がアブラハムの子孫で、そのイエス様の中に私たちが信じて中に入った。
ユダヤ人もギリシヤ人も日本人もすべての方々がイエス様の中に入れられて一つとなり、キリストの中にあって一つ、つまり教会です。
旧約の中では隠されていた「教会」は新約の中ではっきりとでてきます。そして新約の時代で明らかになっています。
今皆さんはキリストのからだー教会の中に入れられている。だからイエス様を着ているというのはその教会の中に居る。
あなたがイエス様を着ているという個人的レベルで話してきましたが、奥義は私たちが教会の中、キリストのからだの中にあるのです。
だから信仰というのは、あなた個人が神様と個人的にやるものではなく、教会としていくもの、そのようなものになっているという事です。
個人レベルで言うならば、
ピリピ3:9「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」とあります。
私たちは自分の義ではなく信仰による義をもらっている。それは神から頂いた神の義を受けているということです。
私たちが神の義を持っているのは、イエス様が神の義であり、そのイエス様の中に入れられているからです。
だから地上生活の中にこんな問題がある、こういう事で悩んでるということがあるか分かりませんが、それは全部解決します。
マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
悪魔が問題解決を長引かせたり、あなたがどれだけ信仰を持っているか試されてその時間を延ばすことがあるかもしれない。
しかし、私たちは天にあるものを求めるのです。
私たちのゴールは天なので、天においての財産をどのように送るのか、積み上げるかという事に目を向けて、地上での損得に目を向けません。
神様が地球を造ってその支配権をアダムに与え、しかし、アダムが騙されてサタンを神にしてしまったので、サタンが地球を支配しているのです。
だから、洪水とかいろんなもので人の命を奪っていくのです。
サタンの仕事は、ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする」ことです。
今私たちが本当に求めるものは、地上でどんなにリッチになるとか、どんなに成功する人生を歩むかではなく、もちろん守られて祝福されますが、望みは天なのです。
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえさせられたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」(コロサイ3:1)
イエス様を信じてイエス様を着たことによって、イエス様のしたことが全部私たちのものになっています。
イエス様のからだの中にあり、イエス様のからだの中で十字架にかかり、地獄に行ったことになり、イエス様のからだの中で天に行っているのです。
ローマ8:2「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
アダムが犯した罪によって私たちが罪と死の法則の中で地獄へ行く者になってしまいましたが、イエス様が死んでよみがえり、キリストのからだ、教会の中に私たちは入ったのです。
その中に入ったことによって、また信じたときに見えないキリストのからだに入れられ、イエス様を着ているので、そのイエス様の中の「いのちの御霊の原理」が私たちに適用されて、私たちは天に上っていけるのです。
だから、私たちは、救われたという個人の視点レベルから、本当の神様の計画は教会を通してなのだということを理解し、キリストのからだである「教会」の中に所属しているという意識、これをしっかり持たないと神様とのズレが出てくるのです。
今、私たちはキリストが死んで生きているので、私たちもキリストの中で生き、神に対して生きる者になっているという事です。
今はキリストと一体なのです。
「 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)
これを見るとイエス様は弱いのか?と思うかもしれませんが、イエス様は人間の体になって来られ、その人間の体においては弱いのです。
イエス様が強くなったのは神によってなのです。
それは私たちの見本です。
私たちも弱いのですがキリストの力、神の力によって生きているのです。
ピリピ4:13「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
神の力によって、今はキリストの中にあって共に生きるので、あなたが出来なくてもキリストが出来ると信じるなら、復活したキリストは強いですので、その中に居るので心配することがない、守られている、召されている者であると自覚をもって進んでいくのです。
クリスチャンというのは30倍60倍100倍と三種類あります。
救われた中で、あなたが選ぶ事なのですが、ただ天国での褒美が30倍60倍100倍の違いが出ます。
あなたが100倍になりたいのなら次のような考えを持たないといけません。
「私たちの中でだれ一人として、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7,8)
生きるのも死ぬのも主のために。
この自覚を持っている人は、死は怖くないのです。
天国が分かっているし、医者から癌だと言われても「ああ、そうですか。」というぐらいな感じです。
この肉の体は滅びなければならない、死ななければならないのです。
私たちは神によって生かされているのです。
私はまだやることがあり、日本のリバイバルのためにやりますので毎日生かされていることを感謝しています。
主のために準備し、主のために伝道し、主のために生きていく。
主のためにリバイバル。
リバイバルの日には主の息が吹きまくっている。
そのためには教えの統一が必要なので聖書学校をしなければいけないと思い始めたのです。
信仰生活40何年なのですが、救われた時からリバイバルのためにインフラをコツコツ積み上げてやってきています。
今、自分は主から何をしなければいけないかを示され、そのことを信じています。
今はまだ全然日本のリバイバルが起きる状態ではない。クリスチャンも1%はいない状態です。
しかし、イザヤ59:19「主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」と言っているならば、それが起こるのです。
そのための担い手として自分は何ができるのかと、それぞれ違う働きがあります。
先週のメッセージ「女預言者デボラとヤエル」では女性が敵の将軍をやっつけました。
https://www.youtube.com/live/gL5VMl6bsfM?feature=shared
それは一瞬の出来事ですが一番の勝利の出来事です。
無理することはないですが、自分の出来る事を主のためにしていく。
自分のために、自分が生活するために生きるのではなく、主があなたを生かしてくださる中で、今あなたは何をするかがはっきり分かれば、何をしなければいけないのかがはっきりと見えてきます。
すべての方はキリストの中にあります。
「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たち執事たちへ。」(口語訳ピリピ1:1)
「 キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち」
つまりみんなキリストの中にいる聖徒です。
すべての人、あなたも兄弟姉妹たち、牧師もキリストの中にいる。
そのキリストのからだというのはキリストの頭があり手があり目があり足がある。
それぞれ機能が違うので自分が出来る事は一体何かということを知って歩んでいくのです。
神様の計画が分かった時、サタンがあなたの目を惑わすでしょう。
あのペテロが水の上を歩いていて風の方向に向いてしまうように。
あなたは自分がどこにいて、どうしてこんなことができるのだろう、何をやっているのだろうということを見ずに、水の上を歩いていく信仰で行きます。
信仰とは信じられない事を信じていくことですので水の上を歩く人の様です。
当てがないのに必ず解決が来ると信じていく。
それが出来るのはみことばを信じる、信頼するからです。
世の中の常識とか、吹く風を見てしまう時に迷ってしまいます。
そうならないようにしっかり見るものを理解したら、私たちははっきり見えるのです。
旧約聖書の中でイエス様の事、教会の事は全然見えないけど目が開かれると、ここはキリストの事を言っていると見えてくるのです。
旧約の中に新約の中身が書いてあるところを私たちも発見します。
それは神の計画が何か分かった時、これを隠していたのだなと気づくようになるのです。
「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。
それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。
キリストはすべての支配と権威のかしらです。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ2:6~11)
私たちは彼、つまり、キリストにあって歩んでいきます。
キリストのからだの中に根ざす生活です、
キリストの教会が建てあげられていく。自分自身が建てあげられていく。こういう歩みをしていきます。
イエス様はこのすべての支配と権威のかしらです。それ故私たちは心の割礼を受けて、この肉の体を脱ぎ捨てて自分がああしたいこうしたいではなくて、主は何をしたいのか、その事のために自分は何ができるのか。
そういう視点の中へと進む時に、私は何でここに生まれてきたのか、ということもはっきりと分かっていく。自分のやる仕事が見えてくるようになるのです。
「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何もしらないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2:2)
いろいろな知識があります。
確かに仕事をするための知識もいります。
私は、40何年前、聖書を取るか、しかし、世の中で生きていくためにはやっぱり社会の常識も知らなくてはと六法全書も勉強する必要もあるのではないかと思いました。
その時、私は決めました。
みことばだけに決めました。
それは大正解で、そのことによって生活もできるし体も守られる。そして神のご奉仕もできるということです。
十字架につけられたキリスト以外の事、つまり聖書以外の事は知るまいと決心しました。
もちろん、一時的に仕事をするための知識は会社のためにはしましたが、私はその傍らで聖書を一生懸命読んで、世の中の常識ではなくて聖書の常識、神のルール、これに目を留めてその通りに歩むと決心しました。
私たちはそれを決心した時、自分がすべきものが見えてくるのです。
真っ暗な中でも豆電球があればいくらかは見えるでしょう。ですがお昼でガラス張りの部屋だと全部が見えます。
だからあなたが全部神様の方に目を向ける、太陽に目を向けた生き方をするなら全部が見えるのです。
「これはしてはいけない、これはサタンの罠だ」と見えるのです。
しかし、あなたがキリスト以外に目を向けると、目がくらみ見えないところが出てしまうので注意していただきたいと思います。
ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とありますので神のことばを聞き続けて欲しいと思っています。
イエス様は死人の中から生き返った方です。
そして私たちはイエス様を信じたゆえに、私たちが死んだ後、よみがえるという希望を持っています。
そして私たちはその歩みの中に行くのです。
今日のメッセージは、旧約聖書の中には「教会」というのが隠されて、新約になって「教会」がいきなり出てきましたけれど、神様の計画は「教会」であるということです。
キリストを通してでないと救いがないことが分かっていましたので、新約の中で初めてそのことがはっきりと現れるようになったということです。
この「教会」についてすこしお話しします。
今日は全部できませんが、この神の御計画というのはキリストにおいて、つまり教会においてそのみことばで皆さんを建てあげていくということです。
私たちがすべきことが書かれています。
マタイ28:18~20「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
教会について私たちは理解していきたいと思います。
イエス様が十字架にかかって死なれた。
何のためにいのちを捨てたのでしょうか。
何と書いてあるか。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)
イエス様はあなたのため十字架にかかりました。
大きな意味で言うと教会のためにいのちを捨てたのです。
だから私たちが教会の中に入れられている。
その教会を建てあげたい。イエス様を信じた私たちはまだ教会と言えども小さなものであります。
この教会が聖書通りの教会にならなくてはいけないのです。
黙示録には七つの教会があってそれぞれ問題がある教会です。
そしてイエス様、神様は、七つの教会を全部喜んでいるかというと喜んでいません。
一部喜んでいるとありますが、そこには書かれていない教会があります。
それが栄光の教会、聖書通りの教会、これを私たちは建てあげていくのです。
イエス様は、誰に与えられるために来られたのでしょう。
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1:22)
イエス様はすべての権威を持ち、神様はその権威を持ったイエス様を教会に下さったのです。
私たちの視点が個人レベルの信仰から教会レベルの信仰になってほしい。
聖書はそれを言っているのです。
そして教会にはいろいろな賜物が与えられます。
聖霊の賜物、知恵の言葉、知識の言葉、異言の解き明かし、預言、奇跡を行う力。
皆さん個人一人一人に与えられるのではなく、教会の中で与えられた神の力を表していきます。
そして神様は教会の中で何を計画したのか。
私たちの視点が教会というところにこれから進んでいかなければいけません。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:11~16)
この教会を建てるために何をするか。
エペソ4:11の使徒、預言者、伝道者、牧師また教師が起こされていきます。
そして、五つのミニストリーが起こされていくのですが、
12節「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」
だから信徒たちが整えられていくのです。
今私たちはこれから整えられていく段階なのです。
どのように整えられていくかというと信仰の一致、あなた自身が信仰しているだけではなくて、皆さんとの信仰の一致、そして知識の一致。
この知識はイエス様に対する知識の一致です。
だから皆さん学んでいます。
そして完全な大人になるまで、この奉仕者によって整えられていくのだということです。
色々な間違った教えもあるから気を付けてください。
エペソ4:15で、私たちは「愛をもって真理を習いあらゆる点で成長する」と書いてあります。
私たち全体がかしらなるキリストに達する事ができる。それを目指して私たちは進んでいきます。
エペソ4:16「キリストによって、からだ全体」
皆さんです。
ピースである皆さんが一つ一つの部分が与えられたところだけやればよいのです。
「その力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、」
結びつく。心臓から血液が流れてこないと困ります。
流さなければいけません。
私たちは恵みをお互いの中で流しあっていく中で、からだとして機能していき、「しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」
これが神様の計画なのです。
そのために私たちが指を動かしていきます。
コップを運びたいけれど親指が嫌だと言うと四本の指でコップをつかむことになり、それは難しい所があります。
親指があると片手でも丸いものでもちゃんと持つことができますし、握る事もできます。
だから自分の機能の出来る事をやればよいのです、
そうすると「しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」という事が起こっていくのです。
神様は栄光の教会を建てようとしておられます。
私たちはそのメンバーなのです。
神様は、黙示録にある七つ教会しかないと言っているのではなく、私たちはそうでない教会を今から建てるのです。
「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:27)
神様の計画は栄光の教会を建てることです。
黙示録3:20「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
「わたしは戸をたたく。」
ドアを開けたらわたしはあなたの中に入るとありますが、それはイエス様が入っていない教会ということです。
救われていない人、神を信じているけれど救われる状況までなっていない人たちの教会、問題がある教会なのです。
私たちはキリストのからだ、つまり本当の教会というのはしみがない、しわがないのです。
その完全な教会、これを私たちはこれから建てあげていこうと思っているのです。
エペソ5:23「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」
イエス様が教会のかしらだから私たちはイエス様に従っていくのです。
牧師の勝手、自分勝手なことに従う必要はありません。
牧師はイエス様から聞いた指示を言い、それがそうだとあなたが思ったらそれに従っていくのです。
「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(コロサイ2:18,19)
かしらはイエス様です。
しっかりイエス様に繋がっていきます。
この教会を建てあげていく責任が自分にはあると思っておりますので、それを実行したいと思います。
そして日本は日の上るところです。
エレミヤがバビロン捕囚が70年と言った預言があります。(エレミヤ29:10)
そのエレミヤの言葉を見つけたダニエルが祈りだします。(ダニエル書9章)
さあ、皆さん、日の上るとは日本ですので「主よこの働きのために私を携わせてください」とあなたが願う時にそのことが起こっていくと思います。
それをするしない、信じる信じないは皆さんの自由です。
それを神が言っていると信じるなら共にそれをしていきたいと思っています。
教会の土台について読んでいきます。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:20)
教会の土台というのは礎石、イエス様です。
その上に土、つまり人間です。
人間は土台なので、使徒とか預言者などの五つのミニストリーの土台の上に教会が建てあがっていくのです。
イエス様は教会についてこのように言われました。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」(マタイ16:18,19)
マタイ28:18~20に一切の権威がイエス様に与えられたゆえに、出て行って地の果てまで伝道せよと書いています。
教会というのは、ハデスの門も勝てない、つまりサタンの地獄も勝てないのです。
このことが理解できる人だけ聞いていただければいいと思います。
地獄に行った人、サタンの地獄に行った人を取り戻してくる死人のよみがえりが聖書の中にありますが、そんなことも終わりの時に起きるでしょう。
マタイ16:19「あなたに天の御国のかぎを上げます」
天の御国のかぎを教会が持っているということです。
「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」という権威が教会にあるということです。
そういうことを私たちは理解し、そしてこの日の上るところで主の息が吹きまくる。
そういうことを期待し、私たちは今細胞分裂し、まだからだになりきっていない状態かもしれませんが、本当に自分が出来る事を始めていきましょう。
教会としてはまず、祈りの友の二人組制度を作っていきたいと思っております。
皆さんに参加していただいて、小さな絆が繋がっていき教会を建てあげていきたいと思いますので、ご理解していただき進んでください。
栄光を主にお返します。
主イエス・キリストの御恵み、神の愛、聖霊の親しき交わり、豊かに豊かに豊かにあるように。そして栄光の教会が建ち上がるのに一人一人が必要な器であります。
そのことを自覚し、自分が願う事でなく神の道を歩むようにしてくださったと信じ、祝福します。イエス様の名前でアーメン
2025年3月16日 聖日礼拝
恵那クリスチャンセンター
メッセージ:神内源一牧師
「偶像崇拝してはいけない」
私たちのまことの神は偶像を忌み嫌われ、造ってはならないと戒めておられます。
出エジプト20:4~6「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
士師記から見ていきます。
「その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。」(士師記6:25)
偶像を壊せ、破壊しろといわれ、ギデオンは立ち上がりました。
イスラエルの民は何度も何度も偶像を拝んで神に逆らってきました。
そしてギデオンが偶像を倒したことによってクレームがつけられたことは見てきました。
「こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい」という意味である。」(士師記6:32)
「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」(士師記8:22)
勝利したギデオンに民は「あなたも息子さんもお孫さんも(私たちを)支配してください」と王となるように望みますが、「自分は王にならない。神が治める」と栄光を神に返します。
しかし、ギデオンは自分と一族にとって罠となるものを作ってしまいました。誤ったことをします。
「ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。」(士師記8:27)
金でエポデを作り、拝むようになってしまいます。形あるものを作ってはいけないし、拝んではいけないのです。
神の声を聞いて戦い、勝利したギデオンが生きていた40年間は正しく穏やかでありましたが、彼が死んだあと何が起こったのでしょうか。
「ギデオンが死ぬとすぐ、イスラエル人は再びバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。
イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった。」(士師記8:33,34)
せっかく勝利をいただいたのにまた元に戻ってしまいます。
私たちも注意しなければいけないところです。
ギデオン(エルバアル)には70人の息子がいましたが女奴隷(召使い)にもアビメレクという子どもができました。そのアビメレクが何をしたか。
9章です。
「さて、エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。
「どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアルの息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」
アビメレクの母の身内の者たちが、彼に代わって、これらのことをシェケムのすべての者に言って聞かせた。
そのとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは「彼は私たちの身内の者だ」と思ったからである。」(士師記9:1~3)
アビメレクの母親の故郷へ行き「70人に仕えるよりも1人でいいではないか、私はあなたの身内ですから」と言います。するとそれに同調してアビメレクを立てようという話になります。
「彼らはバアル・ベリテの宮から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、ごろつきの、ずうずうしい者たちを雇った。彼らはアビメレクのあとについた。」(士師記9:4)
彼らは偶像崇拝しているバアル・ベリテの神殿から銀70シェケルを取り出してアビメレクに与えました。彼はそのお金で乱暴者を雇います。つまり、偶像崇拝のお金で事を始めていったということです。
それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。(士師記9:5)
アビメレクはギデオンの子供たち70人を1つの岩の上で殺害しますが、ただ1人、末の息子ヨタムは隠れていたので助かりました。
エポデを作っていなければこんなことは起きなかったと思います。
今、あなたがたはクリスチャンで成功しているから祝福されていくでしょう。
私たちは生きている間、間違った歩みをしない限り、ギデオンのように何にも問題のない平穏な人生をおくれます。
しかし私たちが死んだ後、私たちが正しいことを伝えていなければ、ギデオンの子どもに問題が起きたように禍根を残すことにもなりかねません。
「それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。」(士師記9:6)
ひとりを除いてみな殺しにしたのでシェケムの民とベテ・ミロの人々はアビメレクを王様にしました。
逃げたヨタムがこの話を聞いて言います。
「このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んで言った。「シェケムの者たち。私に聞け。そうすれば神はあなたがたに聞いてくださろう。」(士師記9:7)
ヨタムは示されたのか、腹立たしかったのかはわかりませんが、自分の兄弟を殺したアビメレクを王にしたことにおいて、たとえ話で抗議します。
「木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』
すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』」(士師記9:8,9)
木々というのは民です。
オリーブの木とは勝利したギデオンだと思います。
王になってくださいと言われた時、ギデオンは「私は神と人を崇めるために使われる私の油を捨て置いて~」と断りました。
ギデオンは本当に神を見上げていましたので、神に召されているのに人の言葉に乗じて優雅に暮らしていくべきだろうかと言ったのです。ギデオンらしい言葉だと思います。
ギデオンが王にならなかったので今度は違う木、いちじくの木です。これは一体誰でしょうか。
「ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』」(士師記9:10)
先ほどと違い、(ギデオンには来てとは言っていません)あなたが来て、来たら王になってといいます。
少し軽んじているところがあります。
イチジクの木は何と言ったでしょうか。
「しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』」(士師記9:11)
いちじくの木はギデオンの息子たちだと思います。ギデオンの後は偶像崇拝するので神は出てきません。
彼らは自分の祝福の視点に立っている。
偶像を拝み、神を見上げていない人たちで自分のことで精一杯なので王にはならないと言ったのです。
次はぶどうの木です。
なぜ3つの木で言うのでしょう。
70人なら70言えばいいと思うのですが。
これは孫だと思います。
「それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』」(士師記9:12)
孫に対してもそう言います。
孫たちは何と言うか。
「しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と、人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』」(士師記9:13)
孫は「私は神と人を喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて~」とあります。
神とは書いていますが偶像の神かもしれません。
オリーブ、いちじく、ぶどうとそれぞれ違う木です。イチジクからはイチジクが、ぶどうからはぶどうができる。これは三世代のことを言っていると思います。
ギデオンは何と言っていたか。
士師記8:22「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」
士師記8:23「しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。」
主が治められる。
自分の中では聖絶、敵を打てと言われましたが、王様になるとは言われていないのでならないということです。
ギデオンの生きている間は良かったのです。
私たちもその後つまずきになるものを残してはいけません。
エポデを作ったのが間違いです。
「そこで、すべての木がいばらに言った。『来て、私たちの王となってください。』」(士師記9:14)
いばらとはヨタムから言わせればアビメレクのことです。アビメレクにも王になってと言うわけです。
「すると、いばらは木々に言った。『もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。』」(士師記9:15)
誠意を持って油を注いだら私は王になる。私に身を避けよ。そうでないなら私から火が出て、焼き尽くされてしまうということを言い、王になっていきます。
これに対してヨタムは例えて言います。
「今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」(士師記9:16)
「誠意を持ってアビメレクを王にしたか。エルバアル(私の父)と家族に対して報いたか。」とヨタムは言います。
「私の父は、あなたがたのために戦い、自分のいのちをかけて、あなたがたをミデヤン人の手から助け出したのだ。」(士師記9:17)
私の父は命がけであなたを助けたのだと山の上から叫んで言います。
「あなたがたは、きょう、私の父の家にそむいて立ち上がり、その息子たち七十人を、一つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクをあなたがたの身内の者だからというので、シェケムの者たちの王として立てた。」(士師記9:18)
あなた方は背いた。
ギデオンの子どもたち70人を処刑し、その女奴隷から生まれたアビメレクを王にすることをしたということを叫びます。
「もしあなたがたが、きょう、エルバアルと、その家族とにまことと真心をもって行動したのなら、あなたがたはアビメレクを喜び、彼もまた、あなたがたを喜ぶがよい。」(士師記9:19)
自分たちがしていることは正しいことならその通りになればいいし、彼自身も皆さんの誠意を持ってなったならいい。が、違うだろうという話です。
「そうでなかったら、アビメレクから火が出て、シェケムとペテ・ミロの者たちを食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの者たちから火が出て、アビメレクを食い尽くそう。」(士師記9:20)
そうでないなら、アビメレクから火が出て、加担したシェケムとペテ・ミロの人たちは焼き尽くされていくと呪いの言葉を言います。
「それから、ヨタムは逃げ去り、ベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。」(士師記9:21)
ヨタムは王にはならず、逃げてアビメレクを避けて隠れ住むようになりました。
そしてアビメレクは統治します。
「アビメレクは三年間、イスラエルを支配した。」(士師記9:22)
3年間支配はしましたが、ヨタムが言った呪いが起こっていきます。
ギデオンがエポデを作らなければ神の守りの中でそのようなことは起きなかったと思います。そこから色んな問題が起きたということです。
私たちの世代は信仰を持っているからいいですが、残った家族に信仰を継承し、正しいことをしなければいけない。そのことを本当に注意したいと思います。
「神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。」(士師記9:23)
アビメレクを担いだ人たちが彼を裏切る。なぜなら神がわざわいの霊を送られたからです。
神が喜ぶ生き方をしていない。
神が祝福したギデオンの子どもを処刑する者に神の祝福はありません。
また偶像に捧げた金でならず者を集めて王となった。
だから問題が起きてくるのです。
「そのためエルバアルの七十人の息子たちへの暴虐が再現し、彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクと、アビメレクに加勢して彼の兄弟たちを殺したシェケムの者たちの上に臨んだ。」(士師記9:24)
さばきが起こっていく。
暴虐への報いが現れてくる。殺された人たちの血の報いです。
アビメレクに協力した人たちにもその呪いが降りかかっていきます。
「シェケムの者たちは、山々の頂上に彼を待ち伏せる者たちを置いたので、彼らは道でそばを過ぎるすべての者を略奪した。やがて、このことがアビメレクに告げられた。」(士師記9:25)
アビメレクを待ち伏せする者たちを山々の頂上に置き、道を通る者を略奪するようなことが起き、このことがアビメレクに告げられていきます。
「エベデの子ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムを通りかかったとき、シェケムの者たちは彼を信用した。」(士師記9:26)
そこにガアルという人物が現れます。
ガアルとその身内のものがシェケムを通りかかりました。
シェケムの人たちはアビメレクに対して敵意を持っていますので今度はガアルを信用するのです、
「そこで彼らは畑に出て行って、ぶどうを収穫して、踏んだ。そして祭りをし、自分たちの神の宮に入って行って、飲み食いし、アビメレクをののしった。」(士師記9:27)
神の宮とありますが、まことの神の宮ではなく元々アビメレクが建てた偶像の神殿です。
偶像の祭りで飲み食いした後、アビメレク王を罵ります。
「そのとき、エベデの子ガアルは言った。「アビメレクとは何者か。シェケムとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。アビメレクはエルバアルの子、ゼブルはアビメレクの役人ではないか。シェケムの父ハモルの人々に仕えなさい。なぜわれわれはアビメレクに仕えなければならないのか。」(士師記9:28)
ゼブルとは(後で出てきますが)このシェケムの指導者。任された人です。
アビメレクの肉身か姻戚関係なのかは分かりませんが、このゼブルはアビメレクの味方です。
そのことをガアルも分かっていたので「アビメレクとは何者だ、彼を助けるシェケムの人たちは何者だ、なぜ彼に仕えなければいけない。ハモルの人々に仕えるべきで、アビメレクに仕える必要はない」と導くのです。
「だれか、この民を私の手に与えてくれないものか。そうすれば私はアビメレクを追い出すのだが。」そして彼はアビメレクに言った。「おまえの軍勢をふやして、出て来い。」(士師記9:29)
アビメルクは王なので従うものもいるので、ガアルは「もっと人数増やして向かって来い」と挑発するようなことを言いました。
彼には兵がないので誰か私に兵をくれないかと言うと、神が送った混乱する霊によって、軍隊ができ、町の人が協力するということで敵意を持っていきます。
「この町のつかさゼブルは、エベデの子ガアルの言ったことを聞いて、怒りを燃やし、」(士師記9:30)
ゼブルはアビメレクの味方であり、この町の長です。ガアルがアビメレクを見下してけなしているという情報をアビメレクに伝えます。
「トルマにいるアビメレクのところに使者を送って言わせた。「今、エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムに来ています。今、彼らは町を、あなたにそむかせようとしています。」(士師記9:31)
使いをやって知らせに行き、そして色々な作戦を与えます。
混乱の霊が来ると、色々新しいものが出たり、今まで味方だった者が敵になったりします。
偶像崇拝する時に色んな問題が起きます。
私たちはそのことに注意していきましょう。
「今、あなたとあなたとともにいる民は、夜のうちに立って、野で待ち伏せなさい。」(士師記9:32)
今から戦いに行こうとしているから待ち伏せするよう進言します。
「朝早く、太陽が昇るころ、町に突入しなさい。すると、ガアルと、彼とともにいる民は、あなたに向かって出て来るでしょう。あなたは好機をつかんで、彼らを攻撃することができます。」(士師記9:33)
朝早く出てくるところを攻撃すれば簡単に勝利できるでしょうという作戦を伝えます。
「そこでアビメレクと、彼とともにいた民はみな、夜のうちに立って、四隊に分かれてシェケムに向かって待ち伏せた。」(士師記9:34)
四隊に分かれて待ち伏せをします。
「エベデの子ガアルが出て来て、町の門の入口に立ったとき、アビメレクと、彼とともにいた民は、待ち伏せしていた所から立ち上がった。」(士師記9:35)
アビメレク軍は待ち伏せした所から出てきます。
ガアルは侵攻して戦うぞという気持ちで行くのですが待ち伏せを知りませんでした。
「ガアルはその民を見て、ゼブルに言った。「あれ、山々の頂から民が降りて来る。」すると、ゼブルは彼に言った。「あなたは、山々の影が人のように見えるのです。」(士師記9:36)
ゼブルは作戦を知っているので、山の影が人に見えるのだとごまかしますが、ゼブルには山から降りて来る兵が見えています。
その後、四方向から兵が来ます。
「ガアルはまた言った。「いや。人々がこの地の一番高い所から降りて来る。また一隊がメオヌニムの樫の木のほうから来る。」(士師記9:37)
ガアルは、「この地の1番高いところからも来ているし、また一隊がメオヌニムの樫の木の方から来る」と言って驚きます。
「すると、ゼブルは彼に言った。「『アビメレクとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは』と言ったあなたの口は、いったいどこにあるのですか。あなたが見くびったのは、この民ではありませんか。さあ、今、出て行って、彼と戦いなさい。」(士師記9:38)
元々アビメレクの味方であったゼブルは「あなたは「アビメレクとは何者か」と大口叩いていたのですから行って戦いなさい」と煽ります。
「そこで、ガアルはシェケムの者たちの先頭に立って出て行き、アビメレクと戦った。」(士師記9:39)
戦うと言った以上戦いに行きます。
「アビメレクが彼を追ったので、ガアルは彼の前から逃げた。そして多くの者が刺し殺されて倒れ、門の入口にまで及んだ。」(士師記9:40)
アビメレクは兄弟を殺して王になったので、ガアルが出てきたら勝つだろうかと思うところですが、ガアルはどさくさに紛れて王になろうかという魂胆があり、うまい汁を吸えるかもしれないという思いなので、正しい人ではなく、神の遣いではないのでアビメルクに返り討ちにされます。
「アビメレクはアルマにとどまったが、ゼブルは、ガアルとその身内の者たちを追い払って、彼らをシェケムに住ませなかった。」(士師記9:41)
ゼブルはガアルが町に戻ってこられないように追い払い、彼らは野に逃れます。
「翌日、民は、野に出かけて行って、アビメレクに告げた。」(士師記9:42)
その情報がアビメレクの方に伝わります。
「そこで、アビメレクは自分の民を引き連れて、それを三隊に分け、野で待ち伏せた。すると、民が町から出て来るのが見えたので、彼らを襲って打った。」(士師記9:43)
アビメレクは今度は三隊に分けて野で待ち伏せし、民が出てきた時に立ち上がって打つのです。
「アビメレクと、彼とともにいた一隊は突入して、町の門の入口に立った。一方、他の二隊は野にいたすべての者を襲って、打ち殺した。」(士師記9:44)
一隊は町に、残りの二隊は野にいるものを襲うという戦いになっていきます。
「アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた。」(士師記9:45)
結局町を占領し民を殺してそこに清めの塩を撒きます。
神に祝福されていないものが清めの塩を撒いたところで意味はありませんがきよめたということです。
「シェケムのやぐらの者たちはみな、これを聞いて、エル・ベリテの宮の地下室に入って行った。」(士師記9:46)
シェケムの残っていた人たちは彼らの信じている神の神殿の下に立てこもります。
「シェケムのやぐらの者たちがみな集まったことがアビメレクに告げられたとき、」(士師記9:47)
神殿の地下に立てこもったことを聞いたアビメレクに作戦が湧きます。
神に立てられた義軍ではない、ただ混乱に紛れてアビメルクの支配から逃れようという思いつきで戦おうとする人たちの結末です。
「アビメレクは、自分とともにいた民とツァルモン山に登って行った。アビメレクは手に斧を取って、木の枝を切り、これを持ち上げて、自分の肩に載せ、共にいる民に言った。「私がするのを見たとおりに、あなたがたも急いでそのとおりにしなさい。」(士師記9:48)
アビメレクは手に斧を持って木の枝を切りそれを担いで、「皆も私と同じようにしろ」と言います。
「それで民もまた、みなめいめい枝を切って、アビメレクについて行き、それを地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いた。それでシェケムのやぐらの人たち、男女約一千人もみな死んだ。」(士師記9:49)
立てこもっている地下室の上に木を置いて火を燃やし焼き殺しました。約1000人が皆死ぬという作戦をとりました。
アビメレクが勝ちますが、勝ったままでは終わりません。この呪いは必ず起きるのです。
「それから、アビメレクはテベツに行き、テベツに対して陣を敷き、これを攻め取った。」(士師記9:50)
他のとこへ行って、攻め落としました。
「この町の中に、一つ、堅固なやぐらがあった。すべての男、女、この町の者たちはみなそこへ逃げて、立てこもり、やぐらの屋根に上った。」(士師記9:51)
堅固な建物があるテベツに逃げたものがあって、アビメレクは追っていきます。
「そこでアビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。」(士師記9:52)
火攻めに味をしめ、今度も焼こうとしましたが、ここでアビメレクはあっけなく死ぬのです。
「そのとき、ひとりの女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。」(士師記9:53)
上から女の人がひき臼の上石を投げつけました。石がアビメレクの頭に当たり頭蓋骨を砕いてしまったのです。アビメレクは女の人に殺されたのでは不名誉なので、あることを使いのものに言います。
「アビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで言った。「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように。」それで、若者が彼を刺し通したので、彼は死んだ。」(士師記9:54)
女の人に殺されたと不名誉な噂を立てられたくないので道具持ちの若者に自分を殺させました。
「イスラエル人はアビメレクが死んだのを見たとき、ひとりひとり自分のところへ帰った。」(士師記9:55)
アビメレクの軍隊は解体していきます。
「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行った悪を、彼に報いられた。」(士師記9:56)
報いは起きました。それは正しくなかったからです。
彼の治世はわずか3年で、しかも女性が投げた石によって頭蓋骨が砕かれていくという呪いの人生でした。
「神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した。」(士師記9:57)
ギデオンの子のヨタムが呪って言ったことがその通りになりました。
元々正しくないからその報いは必ず起きていきます。
この後また士師が起こっていきます。
「さて、アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んだ。」(士師記10:1)
神に立てられたトラが23年間、立ち上がっていきます。
その後です。
「彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間、イスラエルをさばいた。」(士師記10:3)
(詳細は聖書を読んで参照してください。)
「またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行い、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。
主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。
それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しめた。」(士師記10:6~8)
偶像崇拝をあちらこちらで行ったのでまた元に戻っていくということが起きます。
ペリシテ人とかアモン人によって18年間、苦しめられていくことが起こりました。
「アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。」(士師記10:9)
アモン人の攻撃が特に強かったのです。
「そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」(士師記10:10)
ここでやっと、偶像崇拝して罪を犯したと気づきます。
「すると、主はイスラエル人に仰せられた。「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。
シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。
しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。
行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」(士師記10:11~14)
神様は、「もう何度救ったことか。もう助けない。あなた方の拝んだ神がいるだろう。その偶像に助けてもらえばいいのではないか」と言いますが、また、彼らを憐れんで助けます。
「すると、イスラエル人は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」
彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」(士師記10:15,16)
「あなたのご自由にしてください。でも今回だけは、」と助けを求めます。
悔い改め、やっと偶像を取り除いて主に仕えたので、神様は人々の窮状を見るに忍びなくて助けてあげるということが起きました。
そんな中でまだ敵がいます。
その後また別の神の器が起こされていきます。
「ギルアデの民や、その首長たちは互いに言った。「アモン人と戦いを始めるものはだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ。」(士師記10:18)
ギルアデの支配者となる人を求めて、起こされていきます。それはまた今度お話しします。
ここで見たいのはこのように偶像崇拝で色んな問題が起きているということです。
偶像を拝んでも助からない。偶像を拝しても3年しか支配できない。偶像とはどういうものなのかということをよく知っていきましょう。
天地万物、宇宙を作った方が神なのです。
そうでないものを作ってはいけない。拝んではいけないと書いてあります。
「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を得たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。」(イザヤ44:9~11)
偶像というのは虚しいものであり、役に立たないものであり、それを拝むものは恥を見る。
ではその偶像とはどのように作りますか。
「鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。」(イザヤ44:12,13)
木であろうが鉄であろうがそれらを一生懸命作ったのは人間。人間が作ったものに過ぎないではないかということです。
「彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。」(イザヤ44:14)
植えて、手間暇かけて育て上げてきたものを切って作るものと言われます。
「それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。」(イザヤ44:15.,16,17)
同じ材質で暖を取り、料理を作り、その残りで作ったものが神であって、それに救ってくれと言うのかといいます。
「彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない。」(イザヤ44:18,19)
このように偶像とは人間が作ったものです。
喋らない。歩かない。祈りに答えない。
このような偶像崇拝に私たちは注意していきたいと思います。
私たちは初詣もしない。占いもしない。
神の計画はわざわいではない平安であり将来と希望を溢れるものにする。
今一時的に困窮することがあったとしても、私たちの神は答えてくださる。
今そうなっていなければ偶像を作っていないか注意しなければいけません。
あるものは処理してもらい、呪いから解かれた生活に入っていただいて、アブラハムの祝福を受けるおひとりおひとりになっていただきたいと思います。
では最後にガラテア3:13、14を読んで終わっていきます。
私たちは祝福を受けるものであることを感謝します。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13,14)
イエス様が天に上られて私たちは祝福を受けています。
その祝福を受けている皆さんはギデオンのように祝福されますが、子孫につまずきとなるものを残さないように注意していきたいと思います。
栄光を主にお返しいたします。イエス様の名前でアーメン