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今日のみことばN

2024年11月24日 聖日礼拝

恵那クリスチャンセンター

メッセージ:神内源一牧師

        全編

「聖書のキーワード  “型” 」  1

前回、アブラハムがイサクを屠ろうとすろうとするところを見ましたが、少し言い足らないところがありましたので、続けていきたいと思います。

創世紀22章1節でアブラハムが試練を受けたところをみました。

試練というのは、私たちを困らせるためのものではなく、試すもので、私たちが神様に対して信頼を置いているかどうか、私たちの信仰が本物かどうか、はっきりしていきます。

成長過程で挫折することはありますが必ず強くなっていきます。

モーセも挫折があり、神を知ってからもその器になるために40年かかっています。

私たちも、最後はそのように整った者であることを信じていきたいと思います

アブラハムがイサクを捧げなさいと言われてわが子を屠ろうとした時の出来事がどう書いてあるか、ヘブル人の手紙から見ます。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。

神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、

彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(ヘブル11:17~19)

「型」ー 聖書の中に色々な型について書かれています。

この型は、死者の中からイサクを取り戻したということです。

現代において、もし子どもを縛って屠れと神様に言われたら、私は、それは神の声ではないと思います。

なぜならこの型というのは、神様によってイエス様が死んでよみがえることを表しているからです。

だから神様は酷いことを言うのだと思わないでください。イサクは死んでいません。

神様は型を教えるためになさっているのです。

現代においてはイエス様が死んでよみがえられたことで私たちの罪が全部赦されているのに、神の声に従うかどうかを試すために子どもを屠れということはありません。

イエス様によって全て解決されているからです。

神を愛しなさい、人を愛しなさい、という教えを私たちは受けているので、今現代にこういうことは絶対ありません。

今あるとしたら、それはサタンの声ですから間違わないでください。

イサクはイエス様の型です。

神に従順に従っていく。

イエス様は十字架にかかることに従順に従われました。

イサクも年老いた父親が自分を屠ろうとする時に抵抗せずに従っています。

イエス様の型を表していると思います。

 ——–1

創世記22章の11節12章、「アブラハム」と呼び掛けられ、「あなたの手を、その子に下してはならない。」と言われました。

神様は、アブラハムが地上において最高の宝である我が子以上に神を愛すること、神のことばに従うことを示したことを見ました。

アブラハムの信仰も型です。

あなたの子孫はこの星々のようになるということを信じて、義となったと書いてあります。義とされたのです。

アブラハムの信仰義認も型です。

私たちがイエス様を信じ、イエス様が十字架に架かって死んでよみがえったことを信じる。

それだけで義となる。

神様は私たちが神様の考えを理解するために、旧約を通して型を表しているのです。

捧げ物の型としては、一番良いものを神に捧げることの例です。

アベルは最高のものを神に捧げ、カインは残り物を神様に捧げました。残り物を捧げることはありえません。

これも型です。

神様はこういうことを通して教えています。

イスラエルの民がカナンの地へ帰って行きます。

私たちが天の国に帰る型をこういう形で聖書は示しているのです。

 ーーーーー2

「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」(ヘブル8:5)

モーセの幕屋は天の聖所と違っており、その違いが分かるような形にしたものの型だということです。

モーセは自分で思うように天幕を造ったのではなく、「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って」

つまり天幕も型。

メノラー(燭台)の形も型として造られているのです。

私たちが成功する人生も聖書の中に型で示しているのです。

これを私たちが知って、聖書通りの祝福された人生の中に歩んでいけるということです。

イエス様は三日目に復活されました。

これにも型があります。

ヨナです。

ヨナはニネベに行き、神のことばを伝えるように告げられますが逃げました。

乗った船が沈みそうになり自分のせいなので海に投げ込むよう言います。投げ込まれたヨナは大きな魚に飲み込まれ三日三晩、魚の腹の中にいて、悔い改めた時に吐き出されたとあります。

他の箇所にヨナのしるしのほかには、しるしはないと書かれています。

「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」(ヨナ1:17)

三日三晩いて、三日目に出てくるという型です。

 ーーーーーーー3

また「ひな形」というところを見たいと思います。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、― それというのも全人類が罪を犯したからです。

というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」

(ローマ5:12~14)

アダム一人によって全人類が罪となり、イエス様一人によって全ての者の罪が、イエス様を信じるだけで救われる、という型なのだということです。

 ーーーーー4

次にノアの箱舟です。

第1ペテロにあるノアの箱舟についてです。

ここにも型が出てきて私たちを教えています。

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです、昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなた方を救うバプテスマをあらかじめ、示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(Ⅰペテロ3:18~22)

ノアの箱舟も私たちを救うバプテスマをあらかじめ示した型だとあります。

(イエス様が罪のため死んで蘇って霊において生かされ、信じなかった人たち、ノアの時代に従わなかった霊たちのところへ行き救いを宣べ伝えられた。)

わずか八人の人々が箱舟の中で水を通って救われたことは今あなた方を救うバプテスマをあらかじめ、示した型とあります。

ノアの箱舟に乗った八人は洪水という大水の中で救われたことが今私たちが救われるためにバプテスマを受けるという意味の型ー新生のバプテスマのことを言っていると思います。

洗礼を受けなくても天国には行けますが、洗礼は神への誓いを示すものだから、救われていることを表すために水のバプテスマを受ける。

そういう点でなら水のバプテスマかとも思いますが、救われるために受けるバプテスマとして新生のバプテスマを示した型という意味ではないかと思います。

 ーーーーーーー5

ダビデの幕屋も型として書かれています。

神様は、私たちが理解できるように型を示してくださっています。

ダビデの幕屋というのはモーセの幕屋と違って仕切りの幕がありません。

イエス様が十字架に架かったとき、神殿の幕が上から下に裂けました。つまり幕がなくなった状態の型す。

ダビデの幕屋は、天国を示す型、また新約での礼拝の型、新約の幕屋の型が示されています。

しかし、イエス様が来られていないので、まだ完成していません。

それをイエス様によって建て直すということです。

ソロモンの時代に造られた神殿には幕がありました。

ダビデは特別な人であり、ソロモンより前にダビデの幕屋を建てる時に示されていたのです。

普通は預言者と祭司と王は別ですが、ダビデは王であり祭司です。

私たちはもⅠペテロ2:9にあるように王である祭司、だからダビデは新約の形です。

ただ完成していないので型として示されているのです。

当時、異邦人がどんどんパウロの伝道で救われるので、ユダヤ人の使徒たちが会議をしました。その時にイエス様の弟のヤコブがこれらのことが聖書に書いてあると示しました。

「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」(使徒15:16)

元通りにしていく計画があったということです。

 ーーーーーーー6

ヤコブが最愛の妻ラケルによって得た子ヨセフについてです。

父親の愛情を一身に受けているヨセフは兄弟に妬まれ、奴隷として売られます。

彼は、総理大臣になる、親も兄弟も頭下げるという夢を二回見ていたのですが、ポテパルの奴隷となります。

しかし主人に認められ財産管理を任されるようになるのですが、容姿にも恵まれていたヨセフは主人の妻に言い寄られ、これを断ると逆に襲われたという冤罪を負わされ投獄されてしまいます。しかし、ここでも看守に気に入られ人を管理する仕事を任されていき、彼は能力を身につけていくのです。

どうしてこんな目に会うのだろう、わざわいでない平安であり、将来と希望溢れる人生なのにと思う人がいるかもしれない。

ヨセフはこれで終わりません。彼は訓練され整えられていきます。

モーセが40年をかけて整っていったように、皆さんも訓練された中で整っていくのです。

その後、ヨセフは獄中に一緒に入っていた献酌官の夢を解き明かし、私は冤罪なのであなたが戻ったら王様に口添えして欲しいと頼みますが、献酌官はヨセフをすっかり忘れてしまいます。

彼は人に頼りました。

ヨセフは人に頼ってはいけない、神に頼らなければいけないということをはっきり気付かされて、主よ、あなただけを信じます、頼りますと向き直り、また自分を奴隷に売った兄弟たちを赦す心を持った時に彼は牢から出され、出た途端に総理大臣になったのです。

これも型です。

これは 私たちが必ず勝利する型です。

今トラブルの中にあっても、この型を知っているからこれから必ず良くなる。

初めのころは私も分かっていないから、嘆いて神様に一生懸命涙ながらに祈ったり叫んだりしました。

皆さんも分かってくると問題があっても解決すると言えます。

天地万物、宇宙を造った神が、滅びない神のことばが私たちに言っていること。エレミヤ29:11を信じる時に、心配ありません、主にお任せしますと言えるはずです。

ヨセフは牢獄にあって、主に委ねます。

ペテロは、明日殺されるかもしれない、処刑されるかもしれないという状況の中でも全て委ね、悩みませんでした。

私たちの目には大きな問題であるかもしれないけれど、神にとってそれは容易い問題であると信じる時に、大丈夫だと、恵み、信仰に立つことができる。

型がなされていきます。

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祭壇も型通りに造れと言われています。

「また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」(ヨシュア記22:28)

型は全焼のいけにえのため、また他のいけにえのためのものでもありません。

この型は、神様と私たちの間の証拠なのだということです。

色々な型を話しました。

これは私たちにとってイエス様を通しての証拠の型だということを知って信仰生活をしていきたいと思います。

私たちは聖書を読む時に、聖書全体がイエス様のことを通して私たちの恵みを表わしていると知ります。

イエス様が神の命令で地上生活をしたことも型です。

私たちがイエス様を信じてイエス様の中に神を持つ者としての型がイエス様です。

神様はそのように型を示し、私たちが勝利の歩みができるようにしてくださっていることを感謝していきたいと思います。

栄光を主にお返しします。イエス様の名前で、アーメン。

恵み深い天のお父様、感謝します。主の大いなる守りと祝福の中でひとりひとりが本当に神の型を聖書の中から知り、天国へ行く型、罪赦される型を、イエス様を通して示されていることを知りました。その型の中で私たちは圧倒的勝利者であり、神が共にいる素晴らしい勝者であることを感謝します。

おひとりおひとりが益々未来を信じ、過去形で信じて受け取るようにしてくださったと信じます。

主イエス・キリストの御恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりが豊かにあるように祝福します。

イエス様の名前でアーメン

続く

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